000 プロローグ

西暦2108年―。
巨大な謎という概念そのものが実在として、遥か彼方、無限に広がっているような空間−宇宙はいまだとてもではないが、人間が手を加えられるような相手ではなかった。それは共生の対象ですらもない。広大な暗闇、そして光、神秘的と感じた瞬間、それをすぐに覆したくなるような、いわば純粋な唯物論的世界が変わらずにあった。
宇宙旅行は資産家にとっての一種ステータスのようなものとして一部で盛んになってはいるが、とても一般的なものではなかった。居住空間が作られるような動きも当面無いだろうというのが大方の見方である。
そんな中、バカンスとして地球を離れる旅行者とは対照的に、“追われる身”として地球から逃亡を企てる一群が存在していた。

今、日本政府によって指名手配された反政府連盟の特殊時空艦は、フォトンベルトで過去と未来を繋げていた。


しんと静まり返ったアガルマのメインブリッジで、副操縦士を務める三田倉あかねがふいに、やや興奮した声色を発した。

「2031年、時空を通過しますっ。」

その声にこたえて、さらに興奮した声を上げるのは、隣に座る操縦士のツクモ・慶太である。
「サブカライトが発見された年だ!!」。

メインブリッジにいる6人のクルーのうち、艦長のザノビス以外の者が一瞬、慶太のほうへ目をやった。その中でもっとも大きなモーションを見せたのは、普段他のことには反応が乏しい美咲霞乃子であった。無言のままではあるがツクモの方へ向け瞳を輝かせている。「サブカライト」に対する好奇心を霞乃子はいつも隠そうとしない。

慶太に向かって、オペレーターの才門・シーンが目を細めて、少しおちょくるように言った。
「おいおいびっくりさせるなよ、なに?歴史マニアの血が騒ぐってか?」


「そんなんじゃない・・・サブカライト発掘の経緯はいまだ謎に包まれている。急に偶然見つかりましたって訳にはいかないはずだよ。・・・それから僕の歴史への興味は21世紀の初頭までだよ!ゴニョゴニョ・・・」

「もうっ、わかったわよぉ。はいはい」饒舌が加速しそうな慶太を苦笑いのあかねが遮る。

「・・・ただ2031年が日本の歴史を転換させた決定的な年であることに間違いは無い」。
一転、落ち着き払って慶太はつぶやいた。

サブカライトは2031年に小笠原諸島近海で発掘された、まったく新しいタイプの鉱物である。日本政府の公的研究機関ACOは、M2機関を開発し、サブカライトから高エネルギーを発生させることに成功。サブカライトとM2機関は、石油枯渇後の世界のエネルギー事情を一変させることになった。サブカライトを独占する日本はその後、世界とは隔絶した独自の政策路線を歩み始めたのだった。


「2031年上に入ってからサブカライトの反応値が急に上がってるわね。発見された年が関係している?・・・艦長、調べてみたいんだけど、ちょっとの間停泊できるかしら。」
エンジニアのサーシャ・夏目が艦長のザノビスに向かって問いかけた。

「2008年の調査をしたいんだ。地上時間の明日までに2108年に戻りたいから、今回は遠慮してほしい。」
ザノビスは先ほどからずっと、宙の同じ一点をみつめているようだった。

「そう、わかったわ」
とくに不服ではないといった口調で顔色を変えず、サーシャは取り掛かっている仕事を進めた。
「ウェル、資料室からM2−RSのデータを取ってきてちょうだい。」

「オーケー サーシャ 2フン15ビョウイナイニモドル」
サーシャの支持を受けAI知能を搭載された小型ロボットのウェルが空中をクルクルと転がりながら、ブリッジを出て行った。

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スーパーサブカライトをエネルギーに持つ『アガルマ』はザノビス率いる反政府組織『エチカ』の面々が搭乗する時空艦である。
メインブリッジ内の巨大モニターに映し出されているのは、フォトンベルトの少し靄がかかったような薄紫色のゆがんだ景色だった。移動しているという物理的な感覚よりは、めまいという空間が目の前に出現している、そんな感覚であろうか。サブカライトの反応値と量子コンピュータ「スピカ」の計算値から時空内におけるアガルマの現在地が導き出される。
アガルマは1年の時空を約10分で越えるのだった。

2031年の時空はサブカライトに高い反応値を示したほかに特に変わったことを起こさなかった。
宇宙の静かな時間はとても優雅に過ぎていく。


「2028年時空以降、サブカライトの反応が徐々に安定しだしました。」
霞乃子が抑揚を感じさせない、粒のそろった一定のリズムで、インカムに向い言葉を発した。

「そうか、ありがとう」
同じようにザノビスもインカムで霞乃子に答え、インカムを切り、今度はブリッジ中に聞こえるように言った。
「食事にしよう、ウェル頼んだよ。」

さっきから退屈そうにブリッジを浮遊していたウェルは、クルクルと回転しだしたかと思うと「マカセロ」とだけ言ってブリッジを急いで出て行こうとする。
「ウェル、ちょっと待て。ブリッジ内で済まそうと思うから簡易フードを適当に見繕って運んで来てくれ。わかったかい。」

AIの経験値が十分でないウェルに対して言葉の順序を間違えたかな、と思いながらザノビスはすぐに付け足した。
すでにブリッジにはいないウェルの声が遠くから聞こえてきた。
「マカセロ」


フォトンベルトの時空圏は2008年以前にはやっぱり広がらないのかしら」
アガルマを自動操縦に切り替えたあかねが、ブリッジ中央にいるザノビスに問いかけた。
「スピカはそう判断している」
ザノビスのあっけない答えに、多分具体的な答えは返ってこないだろうと予想しつつあかねは質問を少し変更した。
「2008年ってちょうど百年前というほかになにがあるの?」


「2008年の世界・・・。『情報』の概念が一般に広がり、それ以前よりはるかに高度になった資本主義、そして性急なグローバル化が世界の隅ずみまで浸透して行き、各地で軋轢を及ぼし始めた初期の段階。そのあたりは現在のわれわれにも共有の問題としてある。それからインターネットの環境を初めとした工学的技術の社会化、デジタル社会はいまだ発展段階で、インフラとして、いまだ機能してはいなかった・・・が実際的な問題として本格的に議論に挙げられ始めた・・・それは後に新しい形の保守派と革新派を生み出す要因となった。質問の答えになっていないか・・・どう思う、慶太」

「えっと、アメリカに初の黒人大統領が誕生しました。それから日本では当時、それまで半世紀以上、実質政権を牛耳っていた政党の機能が著しく低下しだしました。ゴニョゴニョ・・・」

「あー、そうなんだ、なるほど。ふむふむ。」
その辺、あまり興味は無いけど、というニュアンスを込めてそう言うあかねに、サーシャが
「いまだアナログ的なものが社会を規定していた世界。あかねはアナログな社会って想像できるかしら」
と問いかけた。

「アナログ・・・わたしアナログという言葉自体の意味がよくイメージできないかもしれない」

「2008年の人間には逆に、次第にデジタル化される社会はなかなかイメージできなかったんじゃないかしらね。もちろん私たちもデジタルの社会を日ごろ意識しているわけではないけれど。実のところ私もアナログな社会をイメージしづらいわね。」

「人間の世界観が変わる、節目の時代って訳か・・・」シーンは言った。

「実に興味深いですね」
という慶太の興奮とは対照的に、静かに、だがしっかりとした口調で霞乃子はつぶやいた。

「2008年、アナログな世界」